国民の三大義務「勤労の義務」と「勤労の権利」の本質とは何か?~人は何のために働くのか~

国民の三大義務とは?憲法が定める「勤労の義務」の位置づけ

「国民の三大義務」、それは「勤労の義務」「教育を受けさせる義務」「納税の義務」です。

このうち「勤労の義務」は、企業の労務管理や雇用契約、さらには社会保障制度の根幹に関わる、経営者・管理部門にとって最も重要な論点です。

本コラムでは、憲法第27条が定める勤労の義務と権利を深掘りし、「働かざる者食うべからず」の真実、そして企業の労働倫理を経営戦略としてどう捉えるべきかを読んでいきます。

勤労

【基本】勤労の権利と義務を定めた憲法第27条の規定

憲法第27条は、以下のように規定しています。

第27条 

1 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。

3 児童は、これを酷使してはならない。

 

憲法第27条1項によれば、勤労は権利であり、義務でもあります。
ここで言う「勤労の義務」は、いわゆる「働かざる者は食うべからず」の原理を定めたものとする見解があります。

 

【関連】生存権を定めた憲法第25条の規定

これを詳しく見るにあたり、憲法25条の規定も確認しておきましよう。憲法25条は、以下の通りです。

第25条 

1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する

2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

これは、生活保護や社会保険制度の根拠となる規定です。
そして、勤労の義務が「働かざる者は食うべからず」の原理を定めたものとする見解に立てば、働かない者(=勤労の義務に従わない者)は、生活保護や社会保険を受けられないことになります。
実際、生活保護に関して、保護の要件である「稼働能力の有無」について、

「稼動能力の活用については、

(1)稼動能力を有するか

(2)その能力を活用する意思があるか

(3)実際に稼働能力を活用する就労の場を得ることができるか否か

 の要素により判断することとされている。」

とされていますし(※1)、雇用保険法第4条3項でも、失業給付等の前提として「労働の意思及び能力を有する」ことを挙げています。

 

 

働かないことは勤労の義務に反するのか?

それでは、憲法が勤労の義務を定めている以上、働かないことや不労所得は認められないのでしょうか。

これは認められるでしょう
実際に働いていない方や不労所得で生活をしている方もいらっしゃいますし、仮に勤労を法的に強制する場合は、憲法18条(奴隷的拘束の禁止)及び労働基準法5条(強制労働の禁止)に反することとなるでしょう。
また、勤労所得と不労所得を明確に区別することも難しいと言えます。その意味で、憲法27条は、勤労の義務によって勤労することを法的に強制しているとは言い難いものといえます。
さらに、憲法25条の生存権に基づいて支給される生活保護や雇用保険の支給要件については、判例上、立法裁量(国会が法律の中である程度具体的なルールを決めてもよい)があるとされています。
すなわち、支給要件の中に「働く意思・能力を有すること」といった文言を加えることは、勤労の義務の規定があってもなくても、立法機関がある程度自由に決めることができます。

したがって、生活保護や雇用保険の働く意思や能力といった要件は、勤労の義務の根拠とはなり得ないため、憲法27条の勤労の義務は、あくまで法的拘束力をもつ義務ではなく、特別の意味を持たないか、せいぜい国の政策上の指針を表明したものとみるのが適切でしょう。

 

 

生存権(憲法25条)と「勤労の権利」が国に求める政策義務

一方で憲法27条では、勤労の義務と同時に「勤労の権利」も定めています。
この勤労の権利について、菅野和夫は、①「労働者が自己の能力と適性を活かした労働の機会を得られるように労働市場の体制を整える義務」と②「そのような労働の機会を得られない労働者に対し生活を保障する義務」という、「国の2つの政策義務を意味するものといえる」としています(※2)。

上記の立場は、勤労の権利を、「働きたい人が働けるような環境を整備せよ」「働きたくても働けない人の生活を保障せよ」国に請求できる権利として捉えています。
しかしその一方で、勤労の権利を、「働きたい人が働くことを妨げられない権利(働く権利)」「働きたくない人が働くことを強制されない権利(働かない権利)」ととらえることもできます(ここでいう「働きたくない」は、雇用契約を締結しているにもかかわらず「働きたくない」と主張できるということではなく、その前段階として雇用契約を締結するか否かを選択する自由があるということです)。

前者は当然と考えられるかもしれませんが、後者はある人が自分から望んで「自分はお金がなくてもいいし、生活保護などにも頼らないので働かない」と考えるのであれば働かなくてもよいことを意味します。こうした「働かない権利」も憲法上認められた権利だといえるでしょう(ただし前述の通り、生活保護や雇用保険は、法律上、働く意思・能力があることを前提としているので、それらの制度は利用できません)。

 

 

【現代の労働観】人は何のために働くのか?〜経済的・精神的・普遍的価値を再定義〜

そうすると、働くことも働かないことも個人の自由ということになります。
それでは人は何のために働くのでしょうか

一つ目は、お金が必要だから、少しでも良い生活をしたいから、といった「経済的価値」を得るためです。
前述の「働かない権利」は、「自分はお金がなくてもいいから働きたくない」という人の権利でした。一方で、少しでもより良い生活をしたいから働くという人もいます。そういった人は、働くことも個人の自由なので、自由に働けることになります。

二つ目は、働くことに内在する「精神的価値」を得るためです。
自分の好きなことを仕事にしている人もいます。例えば、プロスポーツ選手などは、もちろんプロになるため日々大変な努力をしているとは思いますが、そのスポーツが嫌いなのにスポーツ選手をやっている人はいないでしょう。他にも、「○○が好きだからこの仕事をやっている」「社会とのつながりを持ちたいのでこの仕事をやっている」「お客様の喜ぶ顔が見たいからこの仕事をやっている」など様々な理由で自身の仕事に誇りをもって取り組んでいる人たちがいます。

三つ目は、「普遍的価値」を得るためです。
普遍的価値は、他者の評価などから離れた自己実現の価値です。この「普遍的価値」は、勤労の権利のほか、表現の自由との関係でも重要となるので、別のコラムで解説します。

これらの働くことに内在する精神的価値や普遍的価値は、やりがい自己実現、満足感・幸福感の充足(ウェルビーイング)といったものが挙げられますが、こうした精神的価値・普遍的価値(ワーク・エンゲージメント)を保障するために、憲法27条1項は勤労の権利を定めているとプラットワークスは考えています。

 

 

「勤労の権利」を保障する未来:ベーシックインカムは就労を抑制するか

これまで憲法27条1項の勤労の権利は、国が完全雇用の達成を目的として、「とりあえず何でもいいから国民が仕事に就くことを保障する権利」として捉えられてきました。
しかし、今後は、「個人の能力やキャリア、性質、特徴に応じて自発的に就労できる権利(または、個人がそうした仕事に就けるように、心身の状態を整え、環境・自己理解の促進を支援する体制を整備する義務)」として再構築すべきであると考えます。

 

新たな収入源として、ベーシックインカムの議論も行われるようになっています。
ベーシックインカムは、働く人も働かない人も等しく一定の給付がなされることで、個人が自身のやりたい仕事や好きな仕事に(中にはお金にならない仕事にも)安心して就けるようになります。
その意味で、プラットワークスは、本来的な「勤労の権利」を保障するものとして、ベーシックインカムは有益なものであると考えています。
ベーシックインカムの就労抑制効果については過去のコラムをご参照ください。

 

※1 社会保障審議会福祉部会 生活保護制度の在り方に関する専門委員会 第14回(平成16714日)資料

※2 菅野和夫『労働法 第八版』弘文堂、16-17頁 

 

 

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