前回のコラムでは、「ケアの倫理」と対する倫理の概念である「正義の倫理」について解説しました。
今回のコラムでは、その対比として生まれた「ケアの倫理」についての概要と、「ケアの倫理」と日本の労働市場における現状とこれからについて、プラットワークスとしての考えとともに解説していきます。
「ケアの倫理(An Ethic of Care)」とは、個々の関係性や相互に依存しあう関係性であることを重視し、自他に対するケアの重要性を強調する考え方です。
「正義の倫理」の他に存在するもうひとつの倫理として、心理学者のギリガンによって提唱されました。
基本的な信念としては以下があげられます。
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1.程度の差はあれ、人は誰しも、他人に対して依存しており、相互依存関係に置かれている。 2.自らの選択とその結果を被りやすい、傷つきやすい(vulnerable)人たちは、その人が選択によりどれほど影響を受けるかに応じ、特別に考慮されるべきである。 3.実際に関係する人たちの利害関心を無視せず、その気持ちを考慮し、細かな状況とその文脈に注意を払い応答することが必要である。 |
このように、ケアの倫理において人は本来依存的であり、相互に依存しあう関係性があるという考えの元、特定の状況下での他者とのつながりやその関係で生じる配慮や責任に焦点を当て、他者のニーズや苦痛に応答して、人間関係を維持・強化することや、その苦痛の回避を行うことを道徳的な目標としています。
ケアの倫理で重視する点
ケアの倫理で重視する点は主に以下です。
・関係性の維持と具体的状況における苦痛の回避:関係断絶と、それに伴う苦痛の回避をしようとする
・対話の重視:対話や交渉を通じてすべての関係者が受け入れられる解決策を探る
・具体的な責任:具体的人間関係の責任に焦点をあてる
ギリガンはコールバーグの普遍的な正義原理に基づく発達を跡付けるコールバーグの理論においては、こういった特定の状況下に即した「ケア」を重んじる女性の姿勢は正当に評価されないと述べています。さらに、コールバーグの理論では一見すると取り留めなく混乱してみえる判断(女性の道徳的な弱さ)は、女性特有の道徳性(人間関係や責任に対する関心)と結びついており、そういった逆説が存在すると以下の通り述べています。
「女性がこのように男性の世話をし続けてきたのに、男性は経済的な制度編成と同じく心理発達の理論においても、そうしたケアを当たり前のことだとみなして、その価値を低く見積もる傾向があった」(ギリガン『もうひとつの声で:心理学の理論とケアの倫理』 1993/2022, p.84)
「ここにこそ逆説が存在する。というのもまさに、伝統的に女性の「善良さ」だと定義されてきたその特性、すなわち他者のニーズをケアし感受性を発揮するという特性こそが、同時女性を道徳性の発達において欠陥ありときめつける目印の役割も果たしているからである」(ギリガン『もうひとつの声で:心理学の理論とケアの倫理』1993/2022, p.86-87)
※参考文献
Carol Gilligan.(1993). In a Different Voice: Psychological Theory and Women’s Development (second edition, with a new preface by the author), Harvard University Press, 1993. (『もうひとつの声で:心理学の理論とケアの倫理』川本隆史・山辺恵理子・米典子訳 風行社 2022)
正義の倫理とケアの倫理の違い
それぞれの倫理においては、基本的な視点や道徳的課題が異なるだけでなく、背景となる個人のとらえ方についても大きな違いがあります。
正義の倫理においては個人を「自立した個人」と捉えるため、愛着や相互依存を否定し、ドライな世界を重視し、他者との関係性を排除した考え方です。そのため、公平に誰の権利を優先すべきかという判断が重視されます。
それに対して「ケアの倫理」において、個人は「傷つきやすく相互依存的な個人」と捉えるため、他者との愛着や相互依存を肯定し、他者との関係性を重視する考え方です。そのため、例えば状況的に公平性に欠けていたとしても、ケアされるべき人がいる場合、特別に配慮すべきという判断が重視されます。
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正義の倫理 |
ケアの倫理 |
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道徳的視点 |
権利、規則、公平性 |
関係性、責任、配慮、特定の状況 |
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道徳的課題 |
権利の保護と紛争の公平な解決 |
孤立や苦痛の回避、関係性の維持 |
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発達の方向 |
普遍的な公平性 |
具体的・状況的な責任と配慮 |
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理想的判断 |
普遍的で客観的、規則に基づく判断 |
状況的で文脈的、関係性に基づく判断 |
なお、現代においてはどちらかのみ優劣をつけて使用するということではなく、状況や文脈に応じてどちらか一方あるいは両方使われるという理解が一般的となっています。
ケアの倫理と義理と人情
日本においては文化的背景において集団の調和と人間関係の維持を重んじる価値観が根付いており、ケアの倫理と結びつきやすい価値観です。これはいわゆる「人情(Humanity)」ともいえ、日本では古くから浸透しており、日本社会とは親和性が高い概念といえます。
対して「人情」の対立概念である「義理(Duty)」は「正義の倫理」と結びつきやすい価値観です。ベネディクトは自身の著書で「昔受けた親切に対する返礼から復讐の義務にいたる、互いに異質的な種々雑多な義務が雑念と含まれている」(ベネディクト『菊と刀』1946, p.155)と述べられている通り、相互関係を守るために定められた道筋として日本社会に浸透しています。
このように日本では「義理と人情」といわれるように、「ケアの倫理」、「正義の倫理」どちらの価値観も古くよりなじみのある概念であるといえます。
ケアの倫理と日本の現状
ケアの倫理はしばしば母性傾向を伴うため、従来の日本では主に家事労働を担う立場にあった女性やケア労働を行う業界において重視されている考え方でした。一方で男性が多数であった従来の労働市場においては他者との関係性や配慮を基盤とする「ケアの倫理」は軽視され、権利やルールを重要視する「正義の倫理」を重視していました。特に高度経済成長期の経済成長を重視していた時代においては、労働市場でも効率性や合理性を追求する「正義の倫理」が有効に働き、家庭においては「ケアの倫理」を重視する価値観が強くあったため、「男性」が家庭の外で働き稼ぎ手となり、「女性」が家庭内で家事育児をするという性役割分業(サラリーマンと専業主婦)が一般的でした。
しかし、近年では女性の社会進出や共働き世帯の増加、ハラスメントやメンタルヘルス疾患の増加、ケア労働者の低賃金問題が顕在化したことで、労働市場において「正義の倫理」のみ重視するのは限界があることと、労働市場において「ケアの倫理」を軽視していたことが顕在化しています。(ケアの欠損)
また、職場内の満足度は待遇だけによらず、職場環境(人間関係など)衛生要因も影響されていることからも、正義の倫理のみを重視する労働市場には限界があることがうかがえます。
つまり、今後はケア労働を行う組織だけでなく、すべての組織においても「ケアの倫理」の考え方を取り入れ、心理的安全性の高い職場を形成していく必要があると考えられます。
また、労働契約法の安全配慮義務、労働安全衛生法の精神的健康への配慮、労働施策総合推進法のハラスメント防止義務、育児介護休業法の仕事と家庭生活の両立支援に関する記載など、労働に関連する法律において「ケアの倫理」の視点である、個別的配慮や人間関係の維持といった考え方を支える法律が複数存在しています。これらの法整備は21世紀に入ってから行われており、「ケアの倫理」が見直されている時代の流れが起きていることもうかがえます。
現代の労働環境においては、従来は男性の正社員を中心とした画一的だった働き方も、女性、育児をしながら働く人、多様な雇用形態で働く人、高齢者、病気、障害をもった人、外国人など多様な背景をもった人々がひとつの職場で働く環境になっているため、個人として配慮し、協同してコミュニケーションを行いながら働くことが求められています。このようなケアの倫理は、現代の労働の倫理を考えるきっかけになるとプラットワークスは考えています。
今後は、事業主にとって、メンタルヘルス対策や働きやすい職場環境づくりといったソフト面での仕組みづくりがより求められ、実際に労働者や社会からもそのような取り組みがされている企業が評価されつつあります。このような仕組みづくりにおいては労務に精通した専門家のサポートをうけるとよいでしょう。
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