もくじ
はじめに ― 前回のコラムを踏まえて
前回のコラムでは、労働基準法における「事業」および事業場単位適用の原則について、学説・行政通達、そして具体的事例を基に整理しました。
そこから明らかになったのは、現行法は「場所的観念」を原則としながらも、実務においてはすでに「労務管理を担う組織」を基軸として適用されているという事実です。今回は、これを一歩進め、
◆そもそも、なぜ労働基準法は「場所」を基準として適用されてきたのか。
◆そして、なぜ現在、その前提が揺らぎつつあるのか。
という点を検討し、事業場の概念が「場所的観念」から「組織的観念」へと移行しつつある意味について考察していきます。
「適用の単位」という問題の本質
(1)「事業とは何か」と「労基法をどこに適用するか」は別の問題である
労基法第9条において「事業又は事務所」という概念が定められていますが、ここには本来、二つの異なる問いが含まれています。
① どのような活動が「事業」に該当するのか。
② 労基法をどの単位に適用するのか。
前回は、主として②の「適用の単位」の問題について、事例を通じて実務運用の実態を確認しました。しかし、制度の根幹(背景)を理解するためには、「なぜ適用単位が『場所』を基準に設計されたのか」について考える必要があります。
(2)「場所的観念」は法理ではない
「一の事業であるか否かは、主として場所的観念によって決定すべきである」
この通達表現は、しばしば法理そのものとして理解されがちですが、その本質は監督行政を成立させるための技術的基準にあります。
労働基準法は、「労働基準監督署(労働基準監督官)が現地に赴き、使用者と労働者を特定して是正を求める」という運用を前提に構築されてきました。そのため、
◆「どこに行けば監督できるか」
◆「どこを管轄とするか」
これらが明確であることが、制度の前提条件だったのです。この行政構造と親和性が高かったのが、「場所的観念」でした。
工場法的発想 ― 土地や設備、企業秩序を基軸とした労働法
(1)労働法は、もともと「工場」を中心に作られた
労働基準法の制度設計を遡ると、その原型には「工場法的発想」が色濃く残っています。
工場法は、1911(明治44)年に制定された、日本初の本格的な労働保護立法です。その名の通り、工場における労働時間や年少者・女性の保護などを定め、戦前期の労働法制の中核を担いました。労基法は、この工場法を前身として制定されたものと位置付けられます。
工場法が想定していたのは、「一定の土地に建物や機械設備が存在し、多数の労働者が集中的に就労する」世界です。この世界では、
◆事業の実体=土地と設備
◆労働者は、そこに「集められる存在」
でした。そのため、「事業を把握する=場所を把握する」ことが、疑いなく成立していたのです。
(2)労働者よりも「企業秩序」が優先された時代
この時代の労働法制において、制度設計の中心に置かれていたのは、必ずしも個々の労働者を権利主体として直接保護するという発想ではありませんでした。労働時間の制限や安全配慮といった労働者保護の規定自体は、当初から明確に存在していました。しかし、それらは、工場秩序や生産体制を維持・管理することを通じて実現される構造をとっていました。
この意味で、当時の労働者保護は、個人の権利保障を直接的に前面へ押し出すものではなく、工場秩序を維持するための手段として位置付けられていた側面があったといえます。
有形資産から無形資産へ ― 前提が崩れた現在
(1)企業価値の中心は、すでに「場所」ではない
現在、企業価値の中核は大きく変化しています。
「土地や建物、機械設備」よりも、「人的資本、ノウハウ、データ、組織能力」といった無形資産が競争力の源泉となっています。労務管理も、「本社・本部での一括管理、クラウドシステムによる統制、テレワークや分散就労」が前提となりました。
(2)それでも法は「場所」に縛られている
しかし、労基法の条文構造や監督制度は、いまだに場所を基準とする世界観を色濃く残しています。その結果、「実態は企業・組織単位で管理されているにもかかわらず、法的責任は事業場単位で切り分けられる」というねじれが生じています。前回のコラムで示した事例は、このねじれを、国が例外的な通達を発出することによって、実態に合わせて補正しているにほかなりません。
テレワークという就労形態は、そもそも労基法が前提としてきた「一定の場所に労働者が集まる」というモデルと親和性を持ちません。テレワークにおいて重要なのは、労働者が「どこで働いているか」ではなく、「誰が労務管理を行い、誰が労働条件を決定し、誰が労働者に対して責任を負っているのか」という点です。
この意味で、テレワークは、労働基準法の事業場単位適用原則を例外的に歪める存在というよりも、むしろ、この原則の背後にある「実質的な責任主体はどこか」という問いを正面から可視化した就労形態であるといえるでしょう。
(3)就労観の変化と「場所的観念」「組織的観念」
ここで注目すべきなのは、単なる就業環境の変化にとどまらず、「働く」という行為そのものに対する前提、すなわち就労観が変化しているという点です。
労働基準法が前提としてきた就労観は、「労働者が特定の場所に出勤し、当該場所において使用者の直接的な指揮命令の下で労務を提供する」というものでした。これは、事業場を物理的な場所として把握する「場所的観念」と強く結び付いた就労観であったといえます。
これに対し、現在広がりつつある就労観では、「労働者がどこにいるかよりも、どの組織が労務管理を行い、誰が労働条件について責任を負っているのか」が重視されます。
労働者は、必ずしも特定の場所に集められる存在ではなく、組織に属し、その統制の下で労務を提供する存在として捉え直されつつあります。このような就労観の変化は、事業場を場所として捉える「場所的観念」から、労務管理主体としての組織を基軸とする「組織的観念」への移行を必然的に要請しているといえるでしょう。
「事業」概念の本質とは何か
以上を踏まえると、労基法における「事業」概念の本質は、物理的な場所そのものにあるのではなく、労務管理を担う主体の存在にあると整理できます。すなわち、場所とは、「労務管理の主体を把握するための一つのメルクマール」であり、そして、「監督行政を成立させるために用いられてきた便宜的な基準」にすぎません。テレワークや分散就労が一般化した現在においては、こうしたメルクマールとしての場所の有効性が低下していることは明らかです。
今後の方向性 ― 場所から組織へ
労働基準関係法制研究会報告書が示唆しているのは、事業場単位適用原則の全面的な否定ではありません。むしろ、「原則としての事業場単位を維持しつつ、責任主体を『労務管理を行う組織』に結び付ける」という、法適用構造の再調整であると考えられます。
これは、工場という物理的拠点を中心とする「工場法的世界観」から、労務管理を担う組織を基軸とする「組織管理的世界観」への移行であり、あわせて、有形資産を中心とした価値観から、人的資本や組織能力を重視する価値観への転換を意味します。さらに、労働者保護に係る責任の所在を、労務管理の実態に即して再定義しようとする試みとして位置付けることができるでしょう。
今般議論されている労基法改正は、この「場所的観念から組織的観念へ」という長期的な転換の文脈の中で捉えるべきものです。そして、この転換は、事業概念にとどまらず、労基法における労働者概念の在り方とも密接に関わっています。
現代的な就労形態の下で、どこまでを労働者として保護すべきかという「労働者性」の問題を明らかにするには、労基法が想定する「事業」や責任主体をどのように捉えるのかを整理することが前提となります。
労基法改正が当初の想定より後ろ倒しとなった現在、改正を拙速に進めるのではなく、事業概念と労働者概念の双方含めて、改めて熟議を深めることが必要不可欠とプラットワークスは考えています。
≪参考資料≫
◆ 厚生労働省「労働基準関係法制研究会報告書」(2025年1月公表)
◆ 厚生労働省労働基準局「令和3年版 労働基準法 上」p114~117
◆ 厚生労働省労働基準局「労働基準法解釈総覧 改訂17版」p72~76
◆ 菅野和夫「労働法 第8版」p82~85
◆ 厚生労働省「労働基準法における「事業」及び「労働者」について」
本コラムで取り上げたような事業場概念の整理は、実務では判断に迷う場面も少なくありません。
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