労働基準法の知られざる機能ーマズローの【欲求】とジラールの【欲望】から読み解く

「労働基準法」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?残業代、有給休暇、割増賃金、厳しい罰則ー多くの場合、この法律は”労働者を保護する最低基準”として認識されています。

しかし、この法律の役割は、単なる生存の保障に留まりません。

心理学者マズローの「欲求段階説」と、哲学者ジラールの「模倣の欲望」という概念を用いると、労働基準法は、人間が自己実現に向かうための”土台”を作り、同時に、競争が過度にならないよう均衡を保つ”調整役”としても機能しています。

本稿では、マズローの欲求とジラールの欲望という2つの視点から、労働基準法が果たしている知られざる役割を考えていきます。

 

欲求と欲望の違いは?

欲求と欲望は一見すると似た言葉に見えますが、心理学者アブラハム・マズローと哲学者ルネ・ジラールは、これらを異なる概念として整理し、人間が行動するための動機を明らかにする理論を構築しました。マズローは人間が内側から満たそうとする”欲求”の階層性を示し、ジラールは他者の欲望を模倣して生まれる”欲望”の力学を明らかにしています。
この2つの理論を対比することで、”欲求”と”欲望”の違いが明確になります。

欲求(need) 

欲求とは、人間がもともと持つ内的な必要性のことです。心理学者マズローはこれを「欲求段階説」として整理し、生理的欲求・安全欲求・所属欲求・承認欲求・自己実現欲求の5段階を示しました。このモデルでは、まず衣食住といった生命維持の欲求が満たされ、続いて安全や社会的つながり、承認が確保されることで、人間はより高いレベルで自分の力を発揮しようとすると考えられています。
欲求は、満たされれば安定し、人間が健全に働くための土台となります。

段階 欲求の名称 特徴
低次 生理的欲求 生命維持に必要な最低限の欲求(衣食住)
安全の欲求 身体的・経済的な安定や安全を求める欲求
高次 社会的欲求 集団への所属や愛情、親和を求める欲求
承認の欲求 他者からの尊敬や自己評価を高めたい欲求
最上位 自己実現の欲求 潜在能力を最大限に発揮し、「自分らしくありたい」と願う欲求(成長欲求)

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欲望(Desire)

欲望とは、「誰かが欲しがっているから、自分も欲しくなる」という他者を通じて生まれる動機づけです。哲学者ジラールが「模倣の欲望」として示したように、対象そのものではなく、それを求めている”他者”を価値基準のモデルとして「模倣(ミメーシス)」することで生まれます。この関係は、以下の三角形の構造で表すことができます。つまり、対象の価値を決めているのは、”自分”ではなく”他者”なのです。この現象は、「模倣している」という本人の意識とは無関係に起こります。

欲望は、地位や評価、名声や承認といった抽象的な対象に向かいやすく、手に入れてもさらに欲しくなり、満たされることがありません。

 

 

           欲望の模倣理論 - ggkkiwat 

このように、「欲求」は自己完結する生物的必然性で、「欲望」は他者を介して生じる模倣的な動機づけといえます。こうした違いを踏まえると、欲求と欲望は働き方に異なる影響を与えることがわかります。

 

自己実現の罠

満たされると表に出なくなる欲求に対して、欲望は他者の存在によって際限なく揺れ動き続けます。その揺れは、「もっと評価されたい」「あの人に負けたくない」といった形で競争につながります。
競争には、努力を促し、成長やイノベーションをもたらすという良い側面もあります。一方、行きすぎるとサービス残業、忍耐競争、ハラスメント、派閥化など、働く環境に深刻な歪みを生じさせます。

ここで問題になるのが、自己実現の罠です。

本来の自己実現は、「自分らしく成長すること」「内発的に能力を発揮すること」です。しかし、欲望に巻き込まれると、他人のキャリアを軸に目標が決まったり、SNSの成功例が普通に見えてきたり、はたまた昇進や賞賛が自分の価値そのものになったりします。自己実現を目指しているつもりが、他者の欲望を追いかける競争に変質しているのです。

これが自己実現の罠です。

この段階になると、もはや個人の意思だけでは抜け出すことが難しくなります。この点、心理学者・榎本博明氏は著書『自己実現という罠』の中で、現代の自己実現が「他者比較を通じて肥大化した欲望」と結びつきやすく、気づかないうちに”他者の基準で生きる競争状態”へと入り込んでしまう危険性を指摘しています。
本来の自己実現は内側の価値から育つものですが、ジラールが示す「模倣の欲望」が支配的になると、自己の価値観や目標設定の主導権が他者に奪われることになり、真の自己実現(内的充足や自己成長)から遠ざかることになるといえます。

 

労働基準法が担う役割① マズロー的役割

このように、人間の動機づけには「安定に向かう欲求」と「揺れ続ける欲望」という流れがあります。
これらの「欲求」「欲望」に対して、労働基準法はこれらに対応する2つの役割を担っています。1つ目がマズロー的役割で、人が生きるために必要な低次の欲求を保障します。

具体的には、憲法第25条及び労働基準法第1条において、劣悪な労働条件から労働者を保護することで、労働者が最低限度の生活を営みうる「生理的欲求」を保障しています。また、労働安全衛生法では、労働基準法と相まって安全と健康の確保を提供することで、労働者が心身ともに安全かつ健康に働くことのできる「安全欲求」を保障しています。このような法的な枠組みを通じて、人が生きていく上での土台となる基本的な欲求の充足を確実なものにしています

生理的欲求の保障

労働基準法1条(労働条件の原則)
第1項 労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。
第2項 この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。
憲法第25条(生存権) 
第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

安全欲求の保障 

労働安全衛生法
主な内容:
・事業者による危害防止措置(労働災害防止のための危険防止措置、衛生管理の実施義務)
・安全管理者・衛生管理者の選任義務
・作業場の環境測定、健康診断の実施義務

労働基準法が担う1つ目の役割は、低次の欲求(生理的欲求・安全欲求)を確実に満たすことです。これによって初めて、
高次の欲求を追求できる土台が生まれます。
最終的に「自己実現の欲求」を職場で追求できる環境を整えることを目的の1つとしています。

労働基準法が担う役割➁ ジラール的役割

労働基準法が担う役割の2つ目は、ジラール的役割で、労働基準法が担う2つ目の役割は、模倣の欲望による過度な競争や抑圧を防ぐことです。
具体的には、労働基準法第36条によって時間外労働の上限を規制し、競争の「対象」と「ルール」を外部から強制的に変えることで、模倣の欲望を抑制する仕組みとして機能するものです。長時間労働が法的に制限されることで、企業は、「誰が一番長く働いたか」ではなく、「誰が効率的に、短い時間で価値を生み出したか」という別の基準で従業員を評価せざるを得なくなり、模倣の対象が「努力(労働時間)」から「生産性(効率性・価値創造)」に変わることになります。

このような法的な枠組みは、企業内部の行き過ぎた競争を抑制するとともに、企業間の健全な競争環境を確保するという点でも重要な役割を果たしており、持続可能な組織・社会を形作る社会的インフラとして評価することができます。

労働基準法36条第6項(時間外及び休日の労働)
 使用者は、第1項の協定で定めるところによって労働時間を延長して労働させ、又は休日において労働させる場合であつても、次の各号に掲げる時間について、当該各号に定める要件を満たすものとしなければならない。
一 (略)
二 1箇月について労働時間を延長して労働させ、及び休日において労働させた時間 100時間未満であること
三 対象期間の初日から1箇月ごとに区分した各期間に当該各期間の直前の1箇月、2箇月、3箇月、4箇月及び5箇月の期間を加えたそれぞれの期間における労働時間を延長して労働させ、及び休日において労働させた時間の1箇月当たりの平均時間 80時間を超えないこと

労働基準法は「欲求」と「欲望」の両面に介入する

こうした背景を踏まえると、持続可能(サステナブル)な組織・社会を実現するためには、労働基準法が担う2つの役割がいずれも不可欠であることが見えてきます。
労働基準法は、人が働くうえでの”土台(欲求の保障=マズロー)”と、過度な競争を防ぐための”調整役(欲望の制御=ジラール)”の両方を担っています。
これらのによって職場には、比較に依存しない創造性の発揮やメンタル不調や離職の予防、さらには多様な才能が活かされる環境といった、健全な成長が可能な条件が整います。

同時にこれは、個人や組織だけでなく社会にも広がります。例えば過労死・労災の減少や医療・社会保障コストの抑制、そして労働力人口の維持など、社会全体の安定性の確保が可能になります。

つまり、労働基準法は「働く人を守る制度」であると同時に、社会全体が持続可能であり続けるための仕組みでもあるのです。

法の知られざる機能こそ、持続可能な組織をデザインする原理である

労働基準法が担う「欲求の保障(マズロー的役割)」「欲望の調整(ジラール的役割)」という二重の原理を理解することは、単なる法遵守に留まりません。これこそが、過度な競争に疲弊しない、持続可能な組織をデザインするための最も重要な原理となります。

貴社の組織を、「自己実現に向かう土台」「健全な競争環境」の両方が機能する、本質的に強い構造へ進化させるためには、法・制度の力学を実務の現場に落とし込む高度な設計能力が不可欠です

弊法人プラットワークスは、この「法の原理」に基づき、事業特性や組織風土に合わせた労務管理体制の構築と、実効性の高い制度運用体制の整備を一貫してご支援します。

労働時間制度の整備といった具体的な施策から、役員報酬、人事制度改定といった組織の根幹まで、「働く人の安心と成長」を担保する組織デザインを専門としております。

「自社の組織原理は、マズローとジラールのどちらに偏っていないか?」—こうした本質的な問いに対し、組織デザインの専門家である弊法人にご相談ください。

 制度構築 - プラットワークス|社会保険労務士法人プラットワークス|東京都 千代田区 大阪市|社労士法人 社労士事務所

 

また、顧問契約というほどではないが「専門家に相談したい」といった、スポット的なアドバイザリーも弊法人では受けております。企業様のご相談のほか、個人の方からの相談についても、元労働基準監督官である弊法人の代表が相談内容を聞き、ご状況を踏まえつつ個別のアドバイスを行います。

スポット相談プラットワークス|社会保険労務士法人プラットワークス|東京都 千代田区 大阪市|社労士法人 社労士事務所

ケアの倫理から労働の倫理を問い直す②~法の精神が要求する新たな組織原理~
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「エンゲージメント」と「コミットメント」の対立構造〜組織の成長に必要なのは「義務」か「自発性」か〜
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